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ケアする人をケアするために。がんの経験談から学ぶ。

近藤和子

ケアする人をケアするために。 たった一人の経験談から学べることは多いはず。

経験談から、病気の人への寄り添い方を、ひとりひとりが、感じ取っていけたらと思います。今、知って、次の誰かに活かせるように・・・・。

私がこれまで取り組んできたことは、別の言葉で表現すると、ソーシャル・キャピタル活動ともいわれます。つまり、マザーリング(情緒的支援)というサポートの方法を軸に、その社会的な支援構造を作り出すことなのです。

そのひとつとして、お互いに支えあう仲間として”マザーリングの会”という大・小・個人的・流動的なサポートグループつくりを手掛けてきました。

その支援方法としてのマザーリング活動には3つのポイントがあります。 1 全人的にかかわること。 2 継続的にかかわる。  3 情緒的にかかわること。

です。

1回や数回のその場限りの相談活動と共に、初めての出産を機に育児相談でかかわった女性と、その後の出産育児、更年期を経て、子育ても終わり親の介護、ついには夫の介護の相談と長きにわたる人との交流があるのが特徴です。

小児科領域では特に、小児がんや、その他の障害症状を抱えての思春期から結婚、できるだけ妊娠・出産がかなうよう、病と共に生活、人生をも支えようと「成育医療」(2001年~国立成育医療センターはそういうコンセプトのもとに設立された代表的病院です。)という考え方も普及してきました。

その中のおひとりで。学生時代からの交流で、結婚生活の変遷も見守り 続けてきた林順子さんが、昨年、乳がんの宣告をうけたと。そして手術を受けての対話の経緯をとうして、このたび その体験を彼女は文章にして送信してきてくれました。

彼女の死生観はこれまでの彼女の人生そのものだと私は思いました。

それは、これまでの長い交流あっての私の理解の仕方なのですが、私は彼女にブログに紹介させてくれないかとお願いしました。彼女は賛同しました。

これまで、彼女が川柳や文章を書くことを研鑽修練してきていたことも知っていましたし、ここで意識して表現してみることが、きっと彼女のサポートにつながる気がしたからです。

それとこどもを持つ母親に共通の感じ方、さらに、車椅子は乗る人と押す人の二人が必要なのだという気づき (青いボーダーラインを引かせていただきました。)も、多くの人に知ってもらい、いつか、どこかで、誰かの“寄り添いのケア”に活かせていただけたら私も彼女も嬉しいからです。

そういう理由で、皆さまに公開します。

ご一読ください。

助走中

平成28年9月21日

林 順子 (秋田市在住・主婦)  平成28年9月28日私はめでたく還暦を迎える。 何て順調な人生なのだろうと神様に感謝する。

年が明けようとする去年暮れに左乳房にしこりを感じた。 全く劇的でもなく現代ではありきたりのような「しこりを感じる」だった。 振り返るとこういう時はさすが還暦をむかえる女は冷静だ。 これは先に延ばさず受診するべき。

3年ほど乳がん検診を受けていない。

しかし年末、今受診しても年を跨いでの診断だろう。 年越しお正月には結婚している長男、次男も孫を連れて来ることになっている。年明け最初の診察日に受診することを決めた。夫を含め家族には受診する前日に報告をした。

通うのに便利な自宅から近い総合病院に受診を決める。

初診時に50代半ばと思われる医師は触診等で「細胞の検査をしないとはっきりしませんが経験上悪性だと思います」と言った。

初診日からそれはそれは絵に描いたように順調に検査、手術、放射線治療と進んでいく。告知、手術の日などは夫と娘が付き添ってくれた。夫には悪いがこういう時は娘は心強い。 28年前、私は左の卵巣の摘出手術をしている。

当時長男は7歳、次男3歳、末っ子の長女は2歳を目の前にしていた。この子たちを残して死ねない。絶対に死ねない。

医師は腫瘍を取らないと悪性か判断できないという。 本当は悪いものでないとわかっていたのではと今では思うが、その時は途方にくれ泣いてばかりいた。

術後子供たちがカラカラ並んで「お母さんここにいたんだ」と嬉しそうに言った声は今も忘れられない。

還暦を迎える今年。その子供たちは35歳、31歳、29歳となった。 この子たちはもう自分の足で立ちそれなりの人生を歩んでいる。 長男、次男は結婚し、この娘の髪を結びリボンをつけてあげられなくなったらどうしようと想像しただけで涙した娘はどうやれば出来るのか私にはわからないが自分で見事に編み込みの髪型にして出かけて行く。

号泣する理由もない。 病院に通い続けると非日常が日常になっていくことに多少の驚きを感じ始めると周りを見渡す余裕も出てくる。

今まで漠然といつか車椅子のお世話になるかも知れないと思っていたがそれは車椅子に乗る自分を想像していたのであって、 車椅子は車椅子を「押してくれる人」が必要なことに気がついたりする。

ご夫婦と思われる人たち、白髪の子供に車椅子を押してもらっている人たち、社会のお世話になっている人もいるだろう。 ひとりでは車椅子は動かないのであった。

放射線治療は土日を除き毎日通い30回の放射であった。 ガラスで出来ているような寝台に横になり患部周辺に数分間照射するのだがなにより孤独な時間だったと感じる。

中盤になると口では「通うのが大変なだけであとは楽なもの」などと言っていたが、その孤独感は夜寝付くころにも静かに襲ってきた。

そんなときふと幼い私と両親とで海水浴に出かけたことを思い出した。 僅かな時間を割いたであろう、その夕方の海は暖かかった。多忙な両親のもと、私は自立しているように見える子供だったが寂しい気持ちをずっと持ち続けていた。

そんな気持ちが癒えていくような、生きていることが懐かしく感じるような夜になった。

病気に勝つとか負けるとか言うけれど、私はそんなことはないと思う。 いずれは皆ひとりで流れ星になるのだ。ただ、いつか再会する46歳で亡くなった兄に兄より長く生きた時間を語れる人生を送りたい。

☆彡 流れ星になるまでずっと助走中   FIN


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