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近藤和子

芸術に学ぶ いまこそ必要な自然な看取り


芸術に学ぶ

芸術から学ぶことは多いものです。

先週、初台の新国立劇場(小劇場)で開催された

(舞台で演じられるオペラの全幕を映画として撮影し、

上映するというもの)で、

椿姫を観てきました。

歌舞伎もそうですが、オペラも、 舞台観賞は観客席での臨場感は味わえるものの、 俳優や歌手の表情の変化まではなかなか味わえないものです。

それが、映画になることで主役の表情、 しぐさのひとつひとつがリアルに伝わり、 その豊かな表現に圧倒されました。

俳優の演技力ってすごい。 映画ってほんとうにいいものですね。

歌い手の素晴らしさはCDやレコードでも観賞できます。 でも、このシーンのこの情景の中でのこの旋律での歌詞なのねという味わいは、 やはり、感情を耕やすためには必要。

深く、心を揺るがされる経験になりました。

自然な看取りの啓発に努力している今の私だからこそ、 気づいたことがあります。

最終幕の椿姫こと、 ヴィオレッタの看取りシーンのなんとリアルなこと。 理にかなっていることに、あらためて気づかされたのです。

医師グランヴィルが、 侍従には頭を振って、もう長くはないといい、 会わせたい人はいないかと勧めます。

が、ヴィオレッタには「治るから希望を持て」という。

けれど、ヴィオレッタはその嘘を見抜き、痛みとともに苦しむ。

そこに、引き裂かれた恋人アルフレードが誤解を解きに会いにきて、 仲を裂いた父親も謝り、そこで、謳われるのが 愛しい人に抱かれて死ねる幸福に”不思議と痛みが消えたと、

そして、一瞬の生への輝きを歌い、

その直後、臨終。

あの演出は決して、脚本家の絵空事ではないのです。 リアルそのもの。

昔の人は実によく観察していたのだなと感心しました。

良く、 燃え尽きるローソクが消えるまじかに明るく燃え盛ると言われるでしょう。

そのとうりのことが、自然な死の情景ではあることなのです。  (それが機械化・延命装置の中での病院死では見られなくなっただけ。)

NHKの朝ドラの「朝が来た」の祖父母の看取りシーンでも、 脚本家って、ほんとうに良く観察しているなと 感心させられるシーンがいくつもあります。

今、在宅医療、在宅看取りが提唱される背景には、 単に、多死の時代になったから、 病院のベッドが空かなくなったから、 だから自宅なんだ、 ・・・という主張だけに耳を貸したくないと私は思っています。

そうではなくて、 今こそ、もっと、 人間として自然で豊かな人生の最期を彩る方法と生き方・死に方への気づき。

自然な生き物として、 それこそ「ローソクの火が燃え尽きる前に一瞬の命の輝きを見せる幸福な看取りの分かち合い」が可能な、 そんな最期の看取りを 取り戻したいと願う主張のほうに賛同したいのです。

それには、 もっと普通の生活者である私たちのひとりひとりが、 死について、普通のあたりまえの死の受け容れ方について学習する必要を感じます。

2018年9月15日から開催の、 ≪看取り方準備講座≫大切な人を家で看取るには

朝日カルチャーセンター(千葉)で、

申し込み受付がスタートしました。

一人でも多くの方々にご参加いただければ嬉しいです。

オペラ・オン・スクリーンの詳細は新国立劇場のホームページにてご確認ください。(今回の上映は終了しています。)

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